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泊原発廃炉訴訟について

● 意見陳述

小野有五 宍戸隆子

常田益代 森山軍治郎

熊谷佳子 清水晶子

村上順一 竹村泰子

林恭子 佐藤英行

斉藤武一 西尾正道

意見陳述

● 熊谷佳子・意見陳述内容

原発立地で分断された人間関係



あの日、津波が全てを破壊し飲み込んでいく映像に「逃げて逃げて」と叫んでいた。福島第一が制御不能に陥っていくその時、電力会社、政治家、官僚組織、御用学者、マスコミがとった行動は隠蔽と嘘の情報を伝えること。今だに汚染は続くが、政府、省庁、電力会社は何処も誰も責任を取らず国民の命を軽視し多くの犠牲を出し続け、何より大切な命を守る責務は置き去りでいいのか?一体どれだけ犠牲を出せば原発は止まるのか?立地で地域の人間関係が分断された1969年、私は岩内町に生まれた。最終的に泊村に決まるが、そこに民主的な議論は無く、何より大切な人権を侵害されてきた。子ども達にもそこで安心して生きて行く権利がある事を無視してはいけない。鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画「六ヶ所村ラプソディー」では強行な推進派と建設に反対し必死に訴え体を張る人々の姿と、お金で権利を奪って行く政府と電力会社が映っている…余りに理不尽で涙が溢れます。故郷を守ろうと戦った大人達がいた…私も子ども達の為に行動したい!突き動かされる思いでここに立っています。皆、町の繁栄を願う想いは変わらないが、原発に関して充分知らずに正しい選択などあり得ない。

国策、反対意見は無視 そして泊原発は稼働した

建設前提で進む国の政策、反対の意見は無視した形で泊原発は1988年に稼働した。そんな時代を経て原発のある風景は日常となっていった。岩内には小学校が3校、中学校2校、高校1校あり、どの学校からも原発がみえる。立地後に生まれた子ども達にはその風景は当たり前となった。私の父の伯父は岩内町町長をし、父は役場に勤務し原発立地推進の立場だった。反対する大人達の声を聞き、子どもの自分も危険なものと捉え、親に「原発で事故が起きれば取り返しがつかない、危険だからやめさせて欲しい」と訴えたが、親には発言を止められ「今は無くても、この先処理する技術が出来る」と言われた。今考えると、地域の人々は安全神話を刷り込まれていたのだ。斉藤武一さんの講演で知った泊原発が稼働してからの、がん多発地域の実情を伝え、泊原発を止める署名を両親にお願いしたところ母の周りでも乳がんになる友達が多いと話してくれ、両親共に署名してくれた。それは旭川に遊びに来ていて地元から離れていたからできたことでしょう。両親の署名で、子どもの時からずっと許せなかった私の想いはほどけた。

原発で豊かになると信じ込んだ人々

昔から、豊かな海の恩恵を受け繁栄してきた地域。子どもの頃に一番印象に残っている港は、数えきれない程の漁船が停泊しライトを灯したイカ釣り船が続々と出港する風景。水平線に見える漁火にワクワクし、翌朝、生きているイカをさばく母の横で、大根や生姜をすりおろし朝イカを食べて登校する日常。ひいじいちゃんが始めた銭湯では地元の酪農家が生産する牛乳を売り、母が牛乳配達のバイトをし、私も休日は手伝った。小学校の写生会では牧場の牛を描く、そんな身近な一次産業は原発立地決定後、町から消えた。当時、賛成や中立の大人達は原発立地で雇用が生まれ豊かになると信じて疑わなかったでしょう…実際には原発で豊かな町は残せない。

福島で気づかされたこと

福島の事故後、原発で事故が起きた時電力会社と国はどう対応するのか、まざまざと見せつけられた地元の複雑な心境…もう多くの人々が気付いている。原子力は処理の方法も定まらない核のゴミを出し続け、未来にそのゴミを押し付ける…これ以上増やす事はどうやっても避けたい。自分達が出すゴミには最後まで責任を取る覚悟を持って生きなければ、次につながる命に対し恥ずかしい。色々な発電方法があるが、私は核のゴミを出す電気はお断りです。これからは電力を自由化し、自分の使う電気は発電方法を選択して買うことが出来る、そんな日本に変われば未来に希望を残す事が出来るのではないだろうか。

(原告・熊谷佳子)