
「原発はいらない!」の願いを現実に!!
私は、函館市に住んでいる原告の竹田とし子です
チェルノブイリが教えた原発事故の恐ろしさ
家業の食料品店で事務などをしています。子育て中の1981年から無農薬野菜の共同購入グループの世話人となり、食品添加物や農業のことを学び、自然が自然であることの大切さを実感しました。
そんななか、1986年のチェルノブイリ原発事故は、事故で放出された放射性物質が、世界中を回り様々な被害をもたらすことを教えてくれました。風に乗って運ばれた放射性物質が、日本の各地で検出されたのです。輸入食品の汚染も、たくさん報道されました。あの時の不安や心配は、旧ソ連やチェルノブイリ原発周辺の人たちだけではなく、日本に住む私たち自身の、子育て中の多くの母親の心配や不安でもあり、私は、日本の原子力発電所が大事故を起こす前に止まってほしいと、ずっと思ってきました。
80年代には、泊原発の建設中止を求める100万人署名にも参加し、函館市で開かれた集会でも、食の安全を求める消費者の立場から建設には反対と訴えました。90年代からは、津軽海峡を挟んだ函館市の対岸の町、青森県大間町に計画されている大間原発の建設差し止め等を求める活動を始めました。
3・11の大地震は、東京電力福島第一原発に水素爆発やメルトダウンといった過酷事故をもたらしました。恐れていた「原発震災」です。五重の壁で守られているといった安全神話とか、国会事故調査委員会の報告書では、規制する側が規制さる側の「虜(とりこ)」になっていた、などと言われました。
昨年の5月5日には日本の原発は全部止まりました。その後、大飯原発2基が再稼動しましたが、今また稼動原発はゼロです。原発が稼動していなくても電力は足りているし、原発に依存しない社会を目指さなくてはと思います。今でも放射性物質は大気中に放出され続け、汚染水は漏れ続けています。また、津波がくる前に配管が地震で損傷したのではないかとの指摘があります。事故現場はいまだ放射線量が高くて近づけず、事故原因の解明ができないうちの「収束」はないと、多くの人が思うのは当然です。当時の政府は「直ちに」影響はないと言いましたが、突然住む家に戻れなくなった人達には、「原発さえなければ」という言葉が全てです。空に、海に、大地に、撒き散らされてしまった放射性の化学物質を、私たちは取り込まないよう注意をはらわなくてはいけない、そういう難しさの中にいます。今まで、科学技術の恩恵だけが強調されてきましたが、突然手のひらを返されて、私たちは、裏側の危険に直面させられたといえます。このような大事故があっても、原因もまだ究明されなくても、放射性物質や汚染水が漏れ続けていても、なお、原発を動かしたがる人達がいることには、言葉がありません。原発を動かして利益を得る人達に、私たちの生命と未来を預けるわけにはいきません。
今を生きる私たちができることは・・・
原発は、処理することができない、しかも私たちの五感で感じられない危険な放射性廃物を、何万年もの長期間にわたって残すことがわかっています。ウランの核分裂過程で作り出してしまうプルトニウムなどの超ウラン元素は、自然界には存在しませんでした。人の一生とは比べられない長期間、無くならない、取り扱いの難しい物質です。これらを発見した科学者達は、それから一世紀もたたずないうちに、世界中に放射性物質が散らばることを想像できたでしょうか。
今の私たちにできることは、これ以上の新たな放射性廃物を生み出すことのないようにすることです。再稼動はお断り。原子力発電をやめ、省エネルギー、再生可能エネルギーへの転換をしなくてはならないということです。
裁判所には、この問題に真剣に向き合って審理していただきたいと思います。なぜなら、泊原発の問題は、泊村や周辺地域だけの問題ではなく、函館市や道南地域に住む私たちの問題、また北海道全体の問題でもあるからです。
岩内町から放たれた1000個の風船のうちの何個かが、札幌市周辺や旭川市まで届きました。コンピューターによるシミュレーションでも、泊で事故が起きれば、放射性物質は、風向きによって、全道各地に拡散することが予測されています。
泊原発で大事故が起きたら、避難計画通りに避難できなくなります。道南や函館市方面に避難者が殺到したら函館市でも対応は不可能でしょう。風が道南方面に吹いていたら、函館市民はどこに避難できるのでしょうか。この問題は、現在泊原発が停止中であるにもかかわらず現実的な問題であり、不安が尽きることはありません。
今を生きる私たちができる、わずかな一歩。それは、「原発はいらない。原発はお断り」という願いを現実のものにすることです。もう、誰も「3・11フクシマ」以前の危険な日本には戻れません。
裁判長、私は泊原発の廃炉を強く求めます。