意見陳述

第30回口頭弁論 大場 幸子

原告:大場 幸子

ふるさとは未だ高濃度汚染地域

私は大場幸子と申します。福島県双葉郡富岡町夜の森北3丁目19番地、これは私の実家の住所です。現在は札幌に住んでいますが、かつては福島第一原発と第二原発の間に位置し、直線距離で7~8kmのところに住んでいました。

桜の名所で1kmにわたって桜並木が続いている美しい町でした。家の前にある夜の森公園周辺は今も線量が高く帰還困難区域で立ち入り禁止です。原発は私が中学から高校生の時に誘致が決まり建設されました。

1万2千人の小さな町は3倍くらいの人であふれ、田舎にふさわしくないような建物が、建設されました。
誰もが「安全神話」の名のもと事故が起きるとは思ってもいませんでした。

3.11の東北大震災、福島第一原発の水素爆発をテレビで見たとき、大変なことになったと心が震えました。母は平成9年に亡くなりましたが、お世話になった方たちの安否が心配でなんとか探し連絡を取りました。

「悪夢」の始まり

大震災が起きた時のことをつづった知人からの手紙は、『3月11日悪夢のような一日は~』からはじまっていました。
『今まで感じたことのない大きな、大きな地鳴りのような音と共に、グラグラと揺れだし立っていられないくらいで、家の外に飛び出しました。家中の戸やサッシがはずれ、ガラスが割れ隣家の屋根瓦がバラバラと降ってきてブロック塀は倒れ、門柱が倒れ家中がめちゃめちゃに壊れて・・

翌朝、夜明けを待って我が家に戻り、そのありさまに、呆然としていたら、防災無線で、『住民はただちに川内村へ避難せよ!!』とせきたてられ、サイレンに追われるようにして上川内に逃げました。
原発事故を知ったのは、2日後の13日朝でした。ショックで声も出ませんでした。
それからが、先の見えない避難生活の始まりだったのです。ただただ遠くへ、遠くへ逃げて自分たちの身に何が起こったのか考える余裕もありませんでした』と、あります。

国道は大崩落で通行止め

小学校からの友人の手紙には、避難経路のことについて書いてありました。
『第一原発が制御不能になり12日6時、政府から大熊町町長に半径10kmの範囲に避難指示が伝達される。富岡町にはどこからも何の連絡もなかったが、テレビ報道などから判断し全町民の避難を決定。防災無線などで避難を呼びかけ川内村の中学校に避難。

国道6号線は福島第二原発付近の大崩落により通行止め。常磐自動車道も陥没や崩落で通行止め。県道35号線は陥没や崩落があったが、かろうじて通行可能。県道36号線は地震による影響なしで唯一確保できた避難経路だったが、多くの住民が集中したため大渋滞。

避難の最後尾の列が富岡町を脱出したあと15:36福島第一原発1号機が水素爆発。避難指示が発せられてから8時間半後のことである。原発再稼動の条件の一つに避難計画の見直しがあるが、被爆することが前提の避難計画であってはならない』と友人は結んでいます。
このように大型トラックなどがビュンビュン走っていた国道6号線が通行止めになったのです。

命を脅かす原発はいらない

泊原発で事故が起きたらと考えるとぞっとします。二車線の国道5号線が大渋滞になり助けに行くことも逃げることもできません。大渋滞の末、札幌に逃れても風の向きで札幌も危険です。北海道全域が壊滅してしまいます。

私は泊原発の廃炉をめざす会の事務局の一員として講演会で本などの販売、チカホでの署名活動や啓蒙活動、裁判後の報告会での準備や紅茶などの提供、珈琲を販売、デモへの参加、7月は「大MAGROCK」、8月は「とまロック」へ参加して反原発を訴えています。

また、私は里親として6歳から高校生まで4人の子たちを養育しています。どんなに一生懸命子どもを育てても原発事故が起こってしまえば、全てが失われてしまします。子どもと一緒に幟を持ってデモに参加しています。また、民生委員として地域の人達と関わりを持っています。先の大震災の時に民生委員の人たちも見守りの人を心配して戻り、亡くなっています。まず、自分の命を守れとお達しがありました。

この法廷にいらっしゃる皆さんの命は20~30年から50~60年だと思います。でも、原発の核のゴミは10万年、いえ、それ以上もこの地球に汚染物質を撒き散らし、人々の命を脅かしていくのです。

私利私欲のため、自然界に存在しない危険な物をつくり稼働させる。それほど愚かな行為はありません。
ローマ教皇の「核廃絶」「原発 使用すべきではない」のメッセージ、これこそがこの美しい地球を護る崇光な祈りと願いです。

裁判長、どうぞ勇気あるご決断で、まずは泊原発を止めてください。
北海道に原発や核のゴミはいりません。