常田益代・意見陳述内容

「なぜ泊原発を廃炉にしなければならないか」

常田益代
 常田益代と申します。2年前に定年退職するまで北海道大学で建築史と美術史そしてデザイン論を教えていました。
 2011年3月11日に福島第一原発事故がおきました。この日を境に日本中の人々が原発に向き合わざるをえなくなりました。一市民として私が学んだことは原発問題はたんなる電力の問題ではないということです。原発は人間の生き方を問い、正義を問い、倫理を問い、人間の地球への関わりかたを問う問題です。そして私は、原発は廃炉にするしかないという結論にいたりました。

-自然の威力-

その理由の第一は、自然の威力の前で、人間の叡智などちっぽけなものにすぎないということです。それゆえ「確率が極めて小さいから想定しなくてもいい」という傲慢があってはならないのです。人間の想定しえないことが、自然界にはおこります。
 日本列島の周辺には4つのプレートと多数の活断層があり、大規模な地震を起こします。泊原発の近くでも活断層が新たに見つかっています。現在、地球は地震活動期にありスマトラ島沖地震(2004年M9)チリ中部地震(2010年Mド8.8)、東日本大地震(2011年M9)とここ数年だけでも津波を伴う歴史的超巨大地震が発生しています。日本の地形さえも変えてしまった今回の大地震の余震と誘発地震が今も各地で起きています。しかし現在の科学では正確に地震を予測することができません。世界有数の地震国日本にとって原発はもっとも危険な発電方法です。現在日本にある原子力発電所は最もあたらしい泊3号機を含め、地震活動期以前の甘い耐震基準で設計されています。

-無毒化できない放射能と核廃棄物-

 次に人類は放射性物質を無毒化できないという事実も学びました。私たちは核廃棄物の処理方法さえ知りません。原発はウラン鉱石の採掘から核処理場にいたるまで、その全行程で放射性物質を放出し続けます。核廃棄物から出る放射性物質の半減期はセシウム137で30年、プルトニウム2.4万年から10万年を要すると言われています。つまり、原発をつづけるということは、途方もない未来の世代に毒物を押しつけることにほかなりません。

-人権と倫理-

 原発の点検と事故の収束は作業員の被爆という犠牲の上になりたっています。内部被曝を受けながら働く作業員の人権はまったく無視されています。また原発事故は子どもからもあたりまえの日々を過ごすという基本的人権を奪ってしまいました。子どもは転校や屋内遊戯や家族との別れを強要されています。福島の事故で明らかになったように、ひとたび原発事故が起これば、放射性物質は、人間が設定した同心円状の避難地域とは関係なく、風下に向かって拡散していきます。上空には常に西風が吹く泊原発周辺当てはめるなら、原発の東方わずか43キロ足らずの小樽や、70キロしかない札幌にも当然、汚染が及びます。仁木町から余市町に広がる果樹園やニセコや支笏湖の自然など、北海道の基幹産業である農業、畜産業、水産業、観光業すべてに甚大な被害が及びます。そして泊原発から100キロ圏内に全道の実に6割弱の人々が暮らしているのです。原発事故のおそろしさは、その不可逆性にあります。汚染された土地を回復することはほぼ不可能です。
 電力の一部を賄う原発のために、命綱である安全な水と土と空気を引き換えにするほど愚かなことはありません。故郷も健康も生きがいもお金では戻りません。社会の公益に資するべき電力会社が、安心して日常生活をおくるという人々の基本的人権を脅かしてまで原発を稼働することは倫理的に許されることではありません。

-原発に安全確認はない-

 「安全神話」は見事に壊れました。経済産業省原子力安全・保安院と原子力安全委員会のいう「安全審査基準に適合している」ことが「安全性の確保」にならないことが証明されました。そもそも、原発の安全確認ということがありうるのでしょうか。故障しない機械や設備はありえません。仮に完璧な原子炉が机上で設計されたとしても、その複雑な製作工程と施工そして運転と制御と点検をするのは人間です。そして人間に思わぬ間違いはつきものです。原発事故が人間の手には負えないことも証明されました。収束技術も模索中です。すべて、これからのおおきな宿題です。
 もし、人間にわずかばかりの叡智があるなら、同じ間違いを繰り返さないことです。事実を認め、事故に学び、学んだことをこれからの判断に生かすことです。安心して暮らすには原発をとめるしかありません。子供、孫、そして未来の世代と地球を共有する万物のために、この大地を守るために、原発を廃炉にし、北海道にふさわしい再生可能エネルギーに転換する時です。