小野有五・意見陳述内容

20:泊原発の沖合の海底地形

 意見陳述では、笠原 稔さんほか(1994)の論文に示された日本海の海底地形図に、これまで指摘された活断層を記入して示したのですが、この図はやや不正確でした。最近、中田さんほか(2012)によって、口絵00にもカラーで示した、アナグリフによる正確で詳しい海底地形図が出されましたので、ここでは、それを使って説明します。
 北海道南西沖地震を起こしたのは、奥尻海嶺の西側から奥尻島の西側に続く急崖をつくる活断層によるものでした。海底地形で急な崖になっているところには、多くの場合、その基部に、活断層が認定されています。図の左下に見える海底の広い台地、松前海台の前面の急崖をつくったのも活断層です。その裏側(南側)にも活断層があります。後志舟状海盆(後志トラフ)の西縁や、奥尻海盆の西縁の崖をつくるのも活断層です。奥尻海盆は東縁も活断で切られて急崖になっています。寿都海底谷の活断層、岩内堆周辺の活断層、そして神威海嶺からカムチャツカ根とよばれる積丹半島北部の海底地形を経て、泊原発の沖合にのびるのが、泊原発にもっとも近い活断層です。
小野有五図20

21:北海道南西沖地震の意味

 茶色の部分は陸上を空から見下ろして立体的に描いたもので、鳥瞰図といいますが、海底の地形は、鳥でも見えません。海面を泳ぐクジラが見下ろしたという意味で、青い海底の部分は鯨瞰図とよんでいます。3つ並んだ爆発マークの北端が、北海道南西沖地震の震源です。北海道南西沖地震は奥尻海嶺の北部、西側で始まり、その破壊が南に及んで、ついには奥尻島の西側にまで及び、それによって30mを超える津波が奥尻島に押し寄せたのです。もし、あのとき、奥尻海嶺の西側でなく、東側の活断層、つまり後志トラフ東縁の活断層が動いていたら、どうなったでしょうか?巨大津波は、そのまま泊原発に押し寄せ、私たちはもう、いま、生きていないのではないでしょうか?
 海底地形では、奥尻海嶺の東にある深い後志トラフとよばれる海底の盆地や、ここに向って、寿都からは、寿都海底谷とよばれる深く切れ込んだ谷が顕著です。また奥尻島の南東には、奥尻海盆とよばれる深い盆地が続き、また南西には、松前海台とよばれる海底の広い台地が広がりますが、その前面も活断層による急な崖で切られています。
小野有五図21

22:北海道南西沖地震による青苗の被災状況

 北海道南西沖地震の起きたのが奥尻島の西側だったので、津波は、奥尻の西海岸では30mにもなりましたが、東側には、回り込むような波になったため、10-15mですみました。それでも、これだけの大きな被害が出たのです。このような巨大津波が、泊原発を直撃する危険を想定しないでいいのでしょうか。
小野有五図22

23:松前海台の前面の地形と活断層

 さきほどの図で位置を示した松前海台とその前面の急な崖を、深さ3500mの日本海の海底から見上げたのがこのコンピューターによる合成図です。松前海台の深さは1500mですから、この急崖は、高さ(比高)が2000mもあることになります。断層運動がくりかえし起きなければ、このような急な崖がこれだけの長さにわたって続くことは、まずありえないでしょう。さら注目されるのは、その前面に、低い崖ができていることです。この崖は、背後の北海道側が逆断層によって日本海の海底に向ってのし上がる運動が今も続いていることの大きな証拠になります。変動地形学からすれば、これらの崖はすべて、最近までその運動が継続している活断層の存在を示しているのです。
小野有五図23

24:海岸の地形から、海底の活断層を推定する

 変動地形学の知見を使えば、目に見える海岸の地形から、目に見えない海底の活断層を推定することができます。以下の5枚の写真は、このような推定がなぜ可能か、という説明のためのものです。まず、大地震のたびに地盤が隆起して「ベンチ」とよばれる地形ができることが、歴史時代の大地震のさいに観察されています。写真は、三浦半島のベンチです。低いほうのベンチは、もともと波で削られてできた浅い平らな海底だったのですが、それが1923年の関東大地震の時に隆起して、このような「ベンチ」をつくったのです。かつては波をかぶる海底だったわけですが、隆起すると、もう水をかぶらなくなるので、正確には「離水ベンチ」といいます。高いほうのベンチは、1703年の元禄地震でできたベンチです。このように、大地震のたびに地盤が隆起することを「地震性隆起」といいます。
小野有五図24

25:西津軽地震による千畳敷の隆起

 写真は、青森県の津軽の海岸にある「千畳敷」とよばれる「離水ベンチ」です。
 これは、1789年に起きた、わずかM7程度の西津軽地震によってできたもので、場所によっては最大3,5mも海底が隆起したと言われています。
小野有五図25