故森山軍治郎氏の遺稿『「泊原発の廃炉をめざす会」運動と北電』

「泊原発の廃炉をめざす会」運動と北電       森山 軍治郎

再稼働阻止に向けて

 「泊原発の廃炉をめざす会」(略称「廃炉の会」)では、廃炉まで追い込むには、法廷闘争はもちろんのことだが、さまざまな運動と連携、つまりクルマの両輪として活動をしていく必要が不可欠だという認識が当初からあった。法廷闘争については後述する。
 これまでも、集会やデモに参加するのは当然だった。ただ、泊原発に隣接する岩内町での集会では千個の風船を飛ばした。原発から出る放射能が同心円状に広がっていかないのは福島第一原発事故の経験でわかっている。日本列島の上空には常に偏西風が西から東へと流れている。そこで主催団体は別だが、当会員も参加して、現地から風船を飛ばしたのだ。遠くは旭川郊外の東川町まで達していた。とても半径30キロ圏内などというものではない。
 さらに、昨年5月の大飯原発に関する福井地裁の判決では、福島事故の経験を深くふまえて原発から250キロ地点でさえ危険だということになった。北海道では、泊原発から東へ余市、小樽はもちろん札幌を中心とした道央圏、旭川、北見、網走、帯広などの道北・道東圏も危険だということになる。ところが、いざ事故が発生したとき、泊原発周辺の人たちは札幌に避難するというのが道の避難計画なのだ。が、泊から6,70キロしか離れていない札幌も危険だというのであれば、200万人以上の札幌圏の人たちはどこに避難すればいいのか。道の避難計画では何ら考慮されていない。
 そこで「廃炉の会」では、札幌圏の人たちも原発事故では当事者そのもので、決して他人事ではないことを、ことあるごとに訴えてきた。
 2015年4月の知事選挙では再稼働反対を表明している候補に期待して、集会にも参加してもらった(ただし「廃炉の会」としては特定の候補または政治団体を直接応援しない)。
 結果として、再稼働反対の候補は負けた。国も北電も再稼働には前のめりになっている。原子力規制委員会の審査が通れば、あとは地方自治体の判断で再稼働にゴー・サインがでる。とくに知事の権限が大きい。新潟県では東電がなんといってきても、泉田知事がガンとして認めていないのでまったく再稼働の目途がたっていない。
 北海道のばあい、かりに高橋知事個人が再稼働に賛成だとしても、知事には道民の命や財産を守る義務がある。北海道全体にわたる事故の際の防災・避難計画が確立されていなければならない。しかも確実に実行可能な体制での実施プランが必要だ。
 「廃炉の会」世話人会 (会の意思決定を行う) の提案で、高橋知事宛の大々的な署名活動を展開することになった。このことは総会にあたる2015年の報告会でも確認された。
 「全道避難計画ができないなら再稼働をみとめないで ! 」がその一つ。
 もう一つ、幌延や道東方面などが「核のゴミ」の最終地下処分施設のターゲットになっているから、この署名も集めようということになった。
「北海道に『核ゴミを持ち込まないで ! 』」
これらの署名用紙を3000人近い会員に送って集めてもらう。さまざまな集会に出かけて行って集めてくる。チ・カ・ホ (札幌駅前地下歩行空間) イベント (出前講座、写真展示、書籍販売など) でも呼びかける。大通公園やパルコ前など中心街でも、ハンドマイクで呼びかけながら10組ほどに分かれて集める。
昨(2016)年6月から開始して、一応12月末日を限度としたのだが、これが思った通りにはいかなかった。世話人会では、ことの重大性からもっと精力的に継続しようということになった。一応3万筆を目標にして、それが達成すれば高橋知事にそれをもって再稼働阻止と核ゴミ問題を訴えにいくことにしている。

「廃炉の会」出発のころ

 「廃炉の会」は2011年7月7日に誕生した。もちろん、3.11の福島第一原発の大事故がきっかけでのことだった。弁護士や市民有志が集まって、地元北海道の泊原発を廃炉にする。そのためには、どうすればいいのか。という議論なのだが、ともかく何度も集会やデモがもたれた。廃炉にするにはどうすべきかという議論に先立って、多くの意見は原発を国策としてきた国や大事故を起こした東電をはじめ電力会社への怒りの爆発だった。
 3.11の大事故直後の北電幹部たちの心情にも怒りを禁じえなかった。
 近藤龍夫会長 (当時) はいう。「安全のとりでと信じてきた、 (原子炉格納容器や原子炉建屋など) 『5重の壁』が瓦解した。現実と思えず、悪夢としか映らなかった」。が、しかし日本のエネルギーとして原発は不可欠だという。泊原発の三機は止めるわけにはいかないという (2011年4月28日付『北海道新聞』)。「安全のとりで」の「『5重の壁』が瓦解」した事実をもってしても、原発は継続するといっている。「安全神話」が完全に崩壊したというのに、原発を止めないとはどういう神経の持ち主なのか。人間じゃあない。
 佐藤佳孝社長 (当時) は会長を弁護するかのように、「泊原発は福島のようにはならない」と強調する。記者会見では、福島第一の1号機で起きた水素爆発について聞かれてこういう。「泊は格納容器の炉型が福島とは違い、10倍の容積がある。仮に水素が発生しても濃度はあがりにくい」。「同じ災害にあっても、泊はああはならない」 (『財界さっぽろ』、2011年5月号)。
 泊原発は福島第一原発とは違う、という発言で忘れることができない記憶がある。1986年にチェルノブイリ原発が大爆発を起こした時だ。日本でも反原発の大運動が広がった。が、国も電力会社も御用学者も推進派もすべて口をそろえていい続けたものだ。「日本の原発の型はチェルノブイリとは違う。日本の科学技術は優秀だから、原発は絶対安全だ」。それがどうだ。福島第一原発が大事故を起こしたのだ。チェルノブイリ事故と同じレベル7という歴史上最高レベルの被害になった。するとこんどは、泊原発と福島第一原発とは違うといいだした。福島のばあいは「想定外だった」とも
いう。想定外などという言葉ではすまされない、取り返しのきかない放射線被害なのだ。

 「廃炉の会」が方向性をもつ運動体として動き出すには、数カ月を要した。
 廃炉までもっていくのは、やはり運動をともなった訴訟しかないだろう、という方向に議論は収れんした。弁護士も少なからず運動の中心にいたからである。が、これまでの全国の原発裁判では、ことごとく差し止めを訴えた住民側が負けてきた。唯一、北陸電力志賀原発2号機に関する金沢地裁判決は住民側の勝訴だった。2006年3月の井戸謙一裁判長が下した名判決だった。しかし、これも上級裁判では完全に覆された。
 北海道では泊原発の建設中に差し止め訴訟がはじまった。1988年のことだ。2年前のチェルノブイリ原発の爆発事故以来、世界的に反原発の大きなうねりが生まれていた。北海道も例外ではなかった。盛り上がっていた市民運動と札幌地区労という労働組合が一緒になっての訴訟運動が準備されていった。5万人の大原告団を作って、訴えたのだ。一人千円の訴訟費用を出し合い、弁護士を立てない素人裁判にふみきった。実際には1120人の原告にしぼって登録し、市民会館とか野球場を法廷にして、巨大な裁判を提案してのことだった。が、裁判長は断固としてこれを認めず、結局30人の原告代表を決め、その中から毎回の法廷にはさらに5人だけが裁判に参加することを命じた。ほとんど普通の法廷のようになった。この5人の代表原告の中に市民運動の側からのぼくもいた。
 判決が下ったのは11年後の1998年だった。ぼくらの敗訴だった。が、裁判長は判決文の最後にこう付け加えていた。「自分たちの子どもたちに何を残すのか。多方面から議論を尽くし、賢明な選択をしなければならない」。敗訴ではあったが、希望が残った。
 だから、しっかりとした裁判をやれば次は勝てるかもしれない。まして、福島第一原発の大事故後のいまなら、確実に勝てる。こんどは大原告団に加えて大量の弁護団で北電と闘う。泊原発を廃炉に追い込む可能性は十分にある。そんな確信から「廃炉の会」は出発した。

裁判がはじまる

 2011年11月11日に提訴。このとき原告団612人 (支援者=賛同人を含むと1264人)、弁護団68人。このころ「廃炉の会」の組織体制ができる。
 原告団長 斉藤武一   副団長 常田益代
 弁護団長 市川守弘   弁護団事務局長 菅澤紀生
 「廃炉の会」共同代表 小野有五  宮内泰介  清水晶子
 「廃炉の会」事務局長 樋口みな子
 このもとに世話人会と事務局がおかれる。当時の事務局は菅澤弁護士の事務所におかれる。
 提訴の2日後、作家の池澤夏樹さんの提訴記念講演「昔、原発というものがあった」が市民ホール超満員の中で開催される。

 第1回目の口頭弁論は2012年2月13日だった。最初の意見陳述は原告代表の斉藤武一さんだった。彼は岩内在住で、ぼくも代表原告をしていた5万人原告団での差し止め訴訟のときも一緒だった。彼は原発建設前から今日まで、毎日欠かさずに泊原発の近くで海水温度を計り続けている。まさに原告団長にふさわしい人物だ。陳述のテーマは「泊原発によって故郷はねじ曲げられ、苦悩の道を歩んでいる」だった。
 福島第一原発の大事故を自分たちの問題と受け止めている住民は恐怖と不安におののいている。泊漁協、岩内漁協など原発周辺の漁業は壊滅した。原発交付金が地域にもたらした歪みには想像を超えるものがある。
 もう一人の意見陳述者は原告副代表の常田益代さんで、現在は「廃炉の会」の共同代表をしている。彼女の陳述テーマは「なぜ泊原発を廃炉にしなければならないのか」。いくつかの重大な理由があるが、「人権と倫理」の問題こそ最重視されなければならない。
 第2回目の口頭弁論では共同代表の小野有五さんが意見陳述に立った。小野さんは地理学者という専門家の立場から泊原発の危険性を主張した。詳しい地図などの図像を示しながら、泊原発が面している日本海のプレート境界の複雑性と活断層について説明する。いつ地震がおきてもおかしくない状況にあるにもかかわらず、北電はこのことを理解していない。とくに活断層の存在については東洋大学の渡辺満久氏の主張を認めない。その存在が目視できないからだという。が、小野さんはこれまでの地質学による調査ではわからなかった事実が「変動地形学」の方法では明確にわかるという。つまり、ある期間の活動で地殻に変動があっても、これまでの地質学的調査では確認できなかったのは海底の表層が変動の事実を隠していたからだという。「変動地形学」からすれば、渡辺氏が主張する危険な活断層を証明することができる。
 このことについては、ぼくら原告側も知らなかったし、被告北電もはじめて見聞したにちがいない。そして、裁判官も認識を新たにしたことだろう。
 2012年11月12日、第2次提訴が行われる。第1次提訴から1年後のことだ。新たに621人の原告が合流することになる。1233人の原告団となった。そんな中で、第4回目の口頭弁論を迎える。4人の意見陳述が準備される。第一原告からはぼくが陳述することになった。
 ぼくの陳述のテーマは「かつての5万人原告団はなぜ負けたのか」だった。自分自身の体験を通して、敗訴になった原因を改めて考えてみた。が、敗訴だったとはいえ、判決文の末尾のことばからは希望につながっていた。「自分たちの子どもに何を残すのか。多方面から議論を尽くし、賢明な選択をしなければならない」。裁判官がそうまでいっていたのに、なぜ泊原発を差し止めにすることができなかったのか。あの裁判にどんな問題が潜んでいたのか。裁判所に提出したぼくの「意見陳述 (要旨) 」からそのまま引用しよう。

1 国策としての原発推進
2 北電はじめ電力会社の「絶対安全」宣伝。「安全神話」の増幅 ― “日本の原発はチェルノブイリとは違う。ソ連 (当時) とは違って日本の科学技術はきわめて優秀だから、日本の原発は絶対安全だ”
3 裁判官の主体性不足、倫理観不足、勉強不足、原告団長・斉藤武一氏「裁判長をはじめ判事の方々にも、表に出ている問題はもちろんのこと、隠されている問題も含め、泊原発の問題を徹頭徹尾勉強してもらわなければなりません。裁判長が正しく勉強してこそ、公平な判決を導くことが出来るからです」 (『訴状』)

 2については、ほとんど補足することもないだろう。「原子力明るい未来のエネルギー」。双葉町の四角いアーチに書かれた文言が原発大事故以前の支配的なイメージだったからだ。3の裁判官の主体性不足とは、裁判官自身が自分の頭で考えず、国策なのだからいいだろうと思っていたのではないのか。「絶対安全」という宣伝を疑いもせず、「安全神話」を信じ込んでいたのだろう。
 倫理観はだれにも要求されることだが、裁判の場でこそ欠かせないものだ。人間社会の営みにあってものごとを判断し、裁いていかなければならないからだ。その意味からすれば、18年前の判決文の末尾の文章からは、すぐれて倫理観に富んだ感覚が読み取れる。あの判決は末尾の部分をベースにして下されるべきだった。裁判官に倫理観は不可欠だ。
 勉強不足については斉藤原告団長が指摘している通りだ。「廃炉の会」の裁判においても、たとえば小野さんがいう「変動地形学」をしっかりと勉強してほしい。
 口頭弁論は次回 (2016年2月16日) で17回目になる。毎回、さまざまな原告の立場からの意見陳述がなされている。第13回目には、河合弘之弁護士が監督した映画『原発と日本』(30分バージョン) をもって意見陳述とした。
 毎回の法廷には傍聴希望者が多数集まり、抽選で入廷が決められるほどだ。それほど原告側は熱心だし、弁護団もさまざまな角度から北電を攻めたてている。が、いままでのところ、被告の北電代理の弁護士たちからの反論もなにもない。無気力にさえ思える。が、後述するが、これからは違ってくるだろう。

運動の広がり

 これまでもさまざまな取り組みがあった。原告団長の斉藤さんは地元から泊原発がもつ多様な問題を鋭く掘り起こし、調査や分析を加えて、わかりやすい紙芝居にして各地で公演してきた。共同代表を中心に講演活動も展開してきた。毎年、3月には「3.11メモリアル」として講演会やパネル・ディスカションなどを企画し、11月にも提訴記念のイベントをやってきた。
 中でも盛会だったのは菅直人元首相を招いての講演会だった。650人収容の会場には入場できない人が100人以上もでるほどの人気だった。このとき、福島からきた原発被災者の発言もあったし、高校生からの発言もあった。元首相の講演には新鮮味は感じられなかったし、原発被災者からは彼への批判もあった。高校生の発言からは、被災地復興を優先すべきで東京オリンピック開催には賛成できないとのことだった。
 これは2014年3月のことであり、廃炉の会の共同代表なども新しくなっていた。この講演会のあとで、全道各地からきていた原告の集まりがあった。北海道は広い。網走、釧路、函館、室蘭、帯広、道北の幌延などの遠方からの参加者がいた。ぼくは道央の美唄からで、札幌に近かった。各地の原告が交流するのはこれがはじめてだった。このとき、「地域連絡会」が話題になり、ぼくは岩見沢・美唄など空知の地域を束ねることになった。 (これを機にぼくは廃炉の会の世話人となり、事務局長になった)。
 3か月ごとの口頭弁論はいつも平日のことで、遠方からの傍聴参加はほとんど不可能だった。すべては札幌中心に動いていた。原告にせよ賛同人にせよ、廃炉の会の会員は札幌圏の人たちが多かったが、全道に散らばっていた。それぞれの地域での活動がのぞまれた。帯広を中心にした十勝では当初から独自活動をしており、全道集会や大規模デモには大型バスで札幌にきていた。が、地元で定期的に「さようなら原発全道100万人署名」運動を展開し、講演とコンサートの企画を進めていた。
 2015年6月の総会に代わる活動報告会では正式に「地域連絡会」の発足が確認された。僕が属する空知では「泊原発廃炉の会・そらち」がすでに活動を開始していた。原子に関する基本的な勉強会、自然農法や自然エネルギーの実験的体験、建設中の大間原発の真下にある「あさこはうす」 (原発敷地内に土地を所有している故熊谷あさ子さんが土地を死守して建てた家で、現在は娘さんの小笠原厚子さんが住んでいる) の「そらち」での訪問といった独自の活動をやってきた。
 活動報告会では岩内からの現状が語られ、壮瞥町では隣接する伊達市の原告たちと小さな集まりや署名活動についての話があった。釧路では市川弁護団長・共同代表を呼んでの集会が開催されていた。あちこちの地域からの報告が続いた。運動が確実に広がっていた。
 が、原告や賛同人が集中している札幌市とその周辺地域での活動がない。というよりも、「廃炉の会」そのものへの参加ができたからないのかもしれない。それにしても地域活動というものがあるはずだ。札幌市10区と周辺市町別の会員名簿が点検される。きめ細やかな地域活動が準備されはじめている。
 今年の「3.11メモリアル集会」には立命館大の大島堅一氏の講演が企画されている。演題は「原発のコストと経済」だ。4月からは電力販売が完全自由化される。原発の電力は選ばない。できれば再生可能エネルギーの電力がほしい。

 とはいえ、最近の動きは脱原発派に有利なことばかりではない。すでに川内原発が再稼働をはじめている。鹿児島県知事が火山活動などを無視して再稼働に同意してしまったのだ。伊方原発に関しても愛媛県知事は再稼働に同意している。こここそ、狭い佐田岬半島にあって、原発よりも先に住む住民には、いざというときに避難するすべがないのだ。
 福井地裁判決でも、高浜原発3,4号機の再稼働が容認され、すでに仮処分で差し止めが決まっていたのが反故にされた。すべて、原子力規制委員会が新基準を満たしたと判断したからだ。田中委員長は規制委員会の基準がパスしたからといって安全が証明されたわけではない。といっているが国の方針が再稼働なのだ。電力会社は原発という資産でより大きな利益がほしい。
 これ以上に「核ゴミ」をだしていいわけがない。原発の負担は電力購入者と納税者の国民だ。北電でも危ない動きが見えはじめてきた。北電が主張してきた基準値震動は550ガルだった。実際に日本で起きてきた地震では4000ガルというものもあった。とても現実的な数字とはいえない550ガルだが、規制委員会はこれを620ガルに引き上げれば、大筋で了承できると発表した。泊沖の活断層の存在はどうなったのか。
 泊原発3号機の再稼働にも規制委員会はゴー・サインをだしてしまいそうだ。地域の合意が最後の砦になるはずだが、周辺4か町村の首長はみんな再稼働賛成派だ。やはり知事の判断が決定的なのだ。なんとしても知事に認めさせてはならない。
 裁判にしても、これまで無気力にさえ見えた北電側も一連の動きの中で俄然攻撃的になるだろう。初期の規制委員会とは違って、大本の判断がおかしくなっている。「廃炉の会」では規制委員会自体のウオッチングが必要になっている。

 当然のことだが、以上が「廃炉の会」運動の全般なのではない。なお、口頭弁論関係の資料は「廃炉の会」機関紙『HAIROニュース』 (1-16号) による。

(2016年2月4日)